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壁建設、前夜
1961年8月12日 土曜日。
ベルリンの人々は、いつも通りの休日を送っていた。
とある東ベルリンの人は、西ベルリンの映画館で「誰がために鐘は鳴る」を観て、家族や友達とその感想を述べ合いながら、東ベルリンの自宅へ帰ったであろう。
また別の東ベルリンの人は、西ベルリンの職場に勤めていて、西ベルリンに移り住む準備を進めていた。
そんな中、それは突如訪れた。
壁建設の背景
1945年4月30日 アドルフ・ヒトラー自殺
5月8日 ドイツ無条件降伏
6月5日 ベルリン宣言で、ドイツは米・英・仏・ソの戦勝4ヶ国によって分割統治されることとなった。
米・英・仏が占領した西側が西ドイツ(資本主義)、ソ連の占領した東側が東ドイツ(社会主義)に。
ベルリンは東ドイツの中にあり、それをさらに4カ国で分割統治。西ベルリンを囲む赤い線の部分が、ベルリンの壁が建設された場所。
1949年 東西ドイツが成立され、国境が閉鎖されたが、東西ベルリンは往来が可能だった。
成長していく西ドイツに、悪化していく東ドイツ。
自由と豊かな生活を求め、多くの東ドイツ国民が西ベルリンを経由し、西ドイツへ逃れた。
その数は1949年には週2000人、1950年には週4000人を数えた。1949年〜1961年の13年間で、東ドイツ人口の15%にあたる2739,000人が西側に流出したとされる。
1961年時点で、西ドイツ人口6000万人、東ドイツ人口1700人。
この状況に焦りを感じた東ドイツは、1961年8月13日零時をもって、突如東西ベルリンの通行を遮断する。
半日にして張り巡らされた有刺鉄線
西ベルリンとの境界線を、東ドイツの国境警察隊、予備警察隊、警察学校生徒、そして労働者階級戦闘団たちが取り囲む。
東ドイツ政府は東西ベルリンを結ぶ68の道路を全て封鎖した。西ベルリンから来た列車の乗客を降車させず、線路を破壊し、有刺鉄線を拡げていった。
全長155km、西ベルリンをぐるりと囲む有刺鉄線の壁は、午後1時までにほぼ完成した。
この事態に際し、統治している米・英・仏はほとんど何も対応しなかった。
人々は、家族に会えなくなった。
職場に行けなくなった。
東ドイツ側はこれを、「ファシズムから東ドイツを守るための、平和の包囲網」と呼んでいた。
壁の変遷と、壁を越えようとする人々
より困難なものに作り変えられる
この壁は、第2世代、第3世代と強固なものに作り変えられて、第4世代で完成となった。
1964年に壁に管理体制が出来上がり、壁を越えることはほぼ不可能となった。2重の壁を張り巡らせ、監視塔から見張り、もし亡命者を見つければ射殺する。
無事脱出した人々
1961年から1988年の間に5000人余りが壁を越えて西ベルリンへ亡命した。その大部分は1964年までの数字である。
1961年8月15日、1人の東ドイツ兵士が有刺鉄線を飛び越えた。「自由への跳躍」として、冷戦時代を象徴する1枚となる。
1964年10月、トンネルによって57人が西ドイツへ亡命した。地下3m、全長145mのトンネルを半年がかりで掘ったもので、
作戦名を、同年開催される東京オリンピックにあやかり「トーキョー作戦」と呼んでいた。東京オリンピック開会式は、57人が脱出した一週間後に開かれた。後に「トンネル57」と呼ばれ、有名な脱出劇となった。
犠牲となった人々
ある者は有刺鉄線を飛び越え、ある者は川を泳いで渡ろうとする。見つかれば射殺だった。
逃亡未遂の疑いがかけられた者は政治犯とされ禁固4年(平均)、その幇助をした者には終身刑が言い渡されることもあったという。
ドイツ・ベルリンの壁にまつわる10の悲劇的ストーリー【カラパイア】
ベルリンの壁における死者は少なくとも136名。東ドイツから亡命しようとして亡くなった人は1200人以上に上ると推測される。
東ドイツから西ドイツへ送られた人々
一方で、無条件で西ドイツへ行くことが許された人々がいた。65歳以上の年金受給者、アルコール中毒者、精神病患者たちだった。彼らがいなくなれば国の負担が減るとして、申請すれば簡単に移住許可が下りたという。
一時的通行緩和
1963年、ベルリン通行証協定が結ばれて、1963年12月19日から1964年1月4日までの17日間、東側に家族がいる西側市民に限り、東側を訪ねることが出来るようになった。
翌年も協定は結ばれ、1967年に協定が改められて、西側から東側への訪問条件は緩和された。
ただ、東側市民が西側へ行くことは出来なかった。
西側市民が東側へ行く際、西ドイツマルクと東ドイツマルクを1対1のレートで交換し、西側に戻る際に余った分は没収していた。
壁の崩壊
1980年代後半、ソ連の共産党書記長にゴルバチョフが就任。民主改革ペレストロイカを推し進めた。
1989年、東欧革命が起き、ソ連の衛星国であった東欧諸国で次々と非共産国家が成立していた。その中のハンガリーが、西側のオーストラリアとの国境を開放。
東ドイツがハンガリー経由で西側に亡命できることになり、東側を西側を隔てるベルリンの壁が意味を成さなくなっていた。
そして1989年11月9日、有名な壁崩壊の瞬間が訪れる。
この日の夕方の生放送の記者会見で、東ドイツ社会主義統一党のスポークスマンであるギュンター・シャボフスキーが、旅行の自由化を発表する。
実際に決議された内容は、「11月10日からの旅行に関する出国規制の緩和」であり、出国にはビザが必要だったのだが、シャボフスキーはその内容を詳しく知らされていなかった。
「旅行の自由化はいつからか」と質問されたシャボフスキーは、「ただちに」と答えてしまった。
その放送を観た東ドイツ国民は国境検問所に集結。
午後10時45分、国境警備隊はやむなく国境ゲートを開放した。
翌11月10日、重機によって壁は破壊され、一部を残して撤去された。
1990年10月3日、東西ドイツは統一された。